私の愛車は、今どきのスマートキーだ。ポケットに鍵を入れたままドアノブに触れればロックが解除され、ブレーキを踏んでボタンを押せばエンジンがかかる。便利で、スマートで、何一つ不満はない。しかし、時々無性に、あの感覚が恋しくなることがある。父が長年乗り続けている、セダンの鍵を差し込む、あの感覚だ。子どもの頃、助手席は私の特等席だった。父がジーンズのポケットから、いくつかの鍵がじゃらじゃらと付いたキーホルダーを取り出す。その中から一本の、メーカーのロゴが入った銀色の鍵を選び出し、ステアリングコラムの脇にある鍵穴に差し込む。カチリ、という小さな音。そして、父がその鍵をひねると、車全体が身震いするかのようにセルモーターが回り、やがてエンジンが穏やかな唸りを上げて目覚める。私にとって、それはこれから始まるドライブという冒険の、開始の合図だった。免許を取り、初めて父の車を運転させてもらった日のことを、今でも鮮明に覚えている。父から手渡された鍵はずっしりと重く、その重みが「運転する」という行為の責任の重さのように感じられた。緊張で震える手で鍵を差し込み、教習所で習った通りにゆっくりとひねる。エンジンがかかった瞬間、私はただの同乗者から、この鉄の塊を操る主になったのだと実感した。スマートキーに慣れた今、たまに実家に帰って父の車を運転すると、その一つ一つの動作がいちいち新鮮で、そして懐かしい。鍵を探し、差し込み、ひねる。この三つのステップを踏まなければ、車はただの鉄の箱のままだ。この一手間が、車と自分との間に、確かな繋がりを生んでくれるような気がするのだ。父の車の鍵には、長年の使用でついた無数の細かい傷がある。それは、父が家族のために走り続けた、走行距離の証そのものだ。それは単なるエンジンを始動させるための道具ではない。父の歴史であり、私の思い出であり、家族の時間を刻んできた、かけがえのないシンボルなのだ。便利な世の中は素晴らしい。しかし、手間や非効率さの中にこそ宿る愛着や物語があることを、父の車の、あの差し込むタイプの鍵は、いつも私に教えてくれる。