私が、今住んでいる、築二十年の中古マンションに、引っ越してきた時のことです。不動産会社からは、「前の入居者の方から、鍵は全て回収済みですので、ご安心ください」と、説明を受けていました。しかし、私の心の中には、どうしても拭い去れない、小さな、しかし、確かな「不安」の棘が、刺さったままでした。本当に、全ての合鍵が、回収されているのだろうか。前の住人が、誰か、別の人に、合鍵を渡していた可能性は、ないのだろうか。あるいは、その前の、さらに前の住人が、作った合鍵が、どこかに、存在しているのではないだろうか。考え始めると、キリがありませんでした。その不安は、日々の暮らしの中で、じわじわと、私を蝕んでいきました。夜、一人でいる時に、廊下で物音がすると、誰かが、合鍵で入ってきたのではないかと、心臓が跳ね上がる。朝、家を出る時も、帰宅した時に、部屋が荒らされていないだろうか、という思いが、頭をよぎる。このままでは、精神的に、落ち着いて暮らすことができない。そう感じた私は、引っ越してきて、一週間後には、玄関の鍵を、新しいものに交換することを、決意しました。管理会社に連絡すると、幸い、私のマンションは、オートロックではなかったため、自己負担であれば、自由に交換して良い、とのことでした。私は、インターネットで、信頼できそうな、地元の鍵屋を探し、見積もりを依頼しました。勧められたのは、ピッキングに極めて強い、ディンプルキータイプのシリンダーでした。費用は、三万円ほど。決して安い金額ではありませんでしたが、これで、心の平穏が買えるのなら、必要な投資だと、私は迷わず、決断しました。交換作業は、三十分ほどで終わりました。新しい鍵を、初めて鍵穴に差し込み、施錠した時の、あの「ガチャン」という、重厚な感触と音。それは、単なる施錠音ではありませんでした。それは、過去の、見知らぬ誰かとの、不確かな繋がりを、完全に断ち切り、この部屋が、本当の意味で「私の城」になったことを告げる、頼もしい産声のように、私の耳に、響いたのです。